最高裁判所第一小法廷 平成7年(行ツ)50号 判決 1996年2月22日
上告人
甲野一郎
右法定代理人親権者
甲野和夫
甲野花子
上告人
甲野和夫
同
甲野花子
同
甲野二郎
右法定代理人親権者
甲野和夫
甲野花子
被上告人
小野市立小野中学校長
西尾教
被上告人
小野市教育委員会
右代表者委員長
田中直祐
右両名訴訟代理人弁護士
上谷佳宏
木下卓男
福間則博
幸寺覚
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告人らの上告理由について
原審の適法に確定した事実関係及び記録によれば、本件の「中学校生徒心得」は、「次にかかげる心得は、大切にして守ろう。」などの前文に続けて諸規定を掲げているものであり、その中に、「男子の制服は、次のとおりとする。(別図参照)」とした上で、別図において「頭髪・丸刈りとする。」とする定めや、校外生活に関して、「外出のときは、制服又は体操服を着用し(公共施設又は大型店舗等を除く校区内は私服でもよい。)、行き先・目的・時間等を保護者に告げてから外出し、帰宅したら保護者に報告する。」との定めが置かれているが、これに違反した場合の処分等の定めは置かれていないというのである。右事実関係の下において、これらの定めは、生徒の守るべき一般的な心得を示すにとどまり、それ以上に、個々の生徒に対する具体的な権利義務を形成するなどの法的効果を生ずるものではないとした原審の判断は、首肯するに足りる。これによれば、右の「中学校生徒心得」にこれらの定めを置く行為は、抗告訴訟の対象となる処分に当たらないものというべきであるから、本件訴えを不適法とした原審の判断は、正当として是認することができる。右判断は、所論引用の判例に抵触するものではない。論旨は、違憲をいう点を含め、独自の見解に基づいて原判決の法令の解釈適用の誤りをいうか、又は原判決の結論に影響を及ぼさない部分についてその違法をいうに帰し、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官井嶋一友 裁判官小野幹雄 裁判官高橋久子 裁判官遠藤光男 裁判官藤井正雄)
上告人らの上告理由
《目次》
第一、「処分」判断の違法・違憲
一、判例の適用を誤る違法
二、判例の適用の違法、法律の適用を誤る違法
三、法律上の授権を要件とする違法・違憲
四、特別権力関係論による法的影響排除の違法
五、教育を権力的にとらえる違憲性
六、行政事件訴訟法三条二項の「処分」の解釈の違法
七、校則の「処分性」
八、本件校則の「処分性」の相対性と裁判規範原則に違反する違法性、及び「処分性」を完全否定して裁判を受ける権利を奪う違憲性
第二ないし第七<省略>
第一、「処分」判断の違法・違憲
一、判例の適用を誤る違法
原判決は、一審判決をそのまま引用して、「無効確認の訴え及び取消しの訴えの対象となる行政庁の処分とは、公権力の行使としての行為であって、その行為によって、直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいうと解すべきである。」としている。これは、「行政事件訴訟特例法一条にいう行政庁の処分とは、所論のごとく行政庁の法令に基づく行為のすべてを意味するものではなく、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によって、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているものをいう」、との最高裁判例(最判昭和三九・一〇・二九民集一八巻八号一八〇九頁)、同趣旨判決(最判昭和三〇・二・二四民集九巻二号二一七頁)によって判断しているのである。
しかし、まず第一に、対象となる行為が、「法律上」認められていることが要件となるとしているにかかわらず、原判決は、要約すると、校則等の法的性質は、法律によらない行政立法である管理規則というべきであり、更に学校は法令に格別の規定がない場合でも校則を規定しうる、としているのであり、これは右判例が「法律上認められている」行為でなければならないとする要件に反しているから、違法であるといわざるをえない。
二、判例の適用の違法、法律の適用を誤る違法
つぎに、法律上認められた行為を対象とするならば、「教育委員会は、別に法律の定めるところにより、学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編成、教育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員の身分取扱に関する事務を行い、並びに社会教育その他の教育、学術及び文化に関する事務を管理し及びこれを執行する。」(地方自治法一八〇条の八・一項)とし、「教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務及び法律又はこれに基く政令によりその権限に属する事務で、次の各号に掲げるものを管理し、及び執行する。
一 教育委員会の所管に属する第三〇条に規定する学校その他の教育機関の設置、管理及び廃止に関すること、
五 学校の組織編成、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。」(地方教育行政の組織及び運営に関する法律二三条)として、その職務権限を規定しているのであるから、校則(生徒心得)の制定は、原判決がいうところの行政立法である管理規則とみても、上告人らが主張するところの生徒指導の規則であるとみても、いずれにしても教育委員会の行政行為であるとしなければならないはずである。ところで、原判決がいうところの校則を法律によらぬ規則とみる論拠は、「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な権能を有し」ているとする判例(最判昭和五二・三・一五民集三一巻二号二三四頁)である。この判例は大学に適用された判例であり、判例自身がいうように「法令に格別の規定がない場合」に適用されるべきである。ところが、本件事件は中学校の校則を問題とした係争であり、しかも、法律に明文の規定があるにもかかわらず、右判例を適用しているのであるから、原判決は判例の適用を誤っていることになり、また、判例を法律より優先して適用している点からも違法であるといわざるをえない。
三、法律上の授権を要件とする違法・違憲
つぎに、不服の対象としての公権力の行使が、法律上認められていることを要件とするとすれば、公権力の行使が、明確な法律の授権に基づいた行政行為であれば問題はないけれども、明確な法律上の授権がないか、あるいは、あるかないかが定かでない行政行為は不服の対象にならない場合が生ずることになる。また、法律上の授権がなくなされる行政行為は、たとえそれが公権力の行使であっても、不服の対象とすることができないことになる。これは、不服の訴訟対象を、法律の授権のある公権力の行使に限定してしまうことになる。現実には、法律の授権が定かでない公権力の行使、あるいは法律の授権がない公権力の行使により、特定の国民に法的影響を与える場合がないとはいえないのである(事例として福岡高宮崎支決昭和四〇・五・一四行裁集一六巻六号一〇九一頁、大阪高決昭和四〇・一〇・五行裁集一六巻一〇号一七五六頁参照)から、不合理である。最高裁判例(昭和三九・一〇・二九)によれば、いわば不法になされる無権限の公権力の行使に対して、国民は不服の抗告訴訟を提起することが不適法とされるという矛盾を生ずることになってしまう。もともと法律上の授権がある行為だけを訴訟対象とするとする最高裁判例(昭和三〇・二・二四)に係る事件自体、法律上の授権がない違法な行政行為であるから違法であると解すべきである。よって、最高裁判例(昭和三〇・二・二四、昭和三九・一〇・二九)は、行政事件訴訟法の趣旨・目的に背反し、国民の権利利益の救済を図り、行政の適正な運営を確保すべき法の精神に反して違法であるし、特定の抗告訴訟を、法律上認められている行政行為でないとして、これを不適法として却下することになるので、国民の裁判を受ける権利を違法に侵害することになって違憲であるというべきである。
そこで、本件事件についてみると、原判決は、校則が行政立法としての管理規則であるとし、他の具体的な行為を待たずに法的効果が及ばないとする特別権力関係、ないしは特殊自律的内部関係を根拠として、生徒への法的影響を否定している。特別権力関係論は法律の授権がなく公権力の行使をしても違法でないとする理論(法治主義の排除・基本的人権の制限・司法権の限界を容認する。)であるから、上告人らが特別権力により基本的人権や親権を侵害されても、法律の授権がないとして不服の抗告訴訟は不適法となり却下されるから違法であり、裁判を受ける権利を奪い違憲である。
四、特別権力関係論による法的影響排除の違法
そもそも、法律によらぬ行政権の行使たる特別権力の行使は憲法七三条一号の反対解釈から違憲であるとすべきで、特別権力による権利の制限は、憲法七三条六号、内閣法一一条、国家行政組織法一二条四項・一三条二項の反対解釈から違憲・違法であるとすべきである。また、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」(一一条)としてその永久不可侵性を規定し、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(一三条)「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」(九八条一項)のである。また、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」(同条二項)のであり、「この規約の締結国は、この規約に合致するものとして国により確保される権利の享受に関し、その権利の性質と両立しており、かつ、民主的社会における一般的福祉を増進することを目的としている場合に限り、法律で定める制限のみをその権利に課することができることを認める。」(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約四条)としていることから、法律で定めず、憲法の基本的人権を特別な権力で制限することは国際規約に反し、国際法規の遵守規定(憲法九八条二項)に反するのであり、それは違憲の公務行為であるから、憲法九八条一項に反し、その効力を有しないのである。
したがって、特別権力の行使は違憲であるのに、原判決が特別権力関係における法的効果を否定して、法的影響がないとするのは脱法的で違法である。原判決が、校則が一般的・抽象的である故に法的効果を否定していることはさておき、特別権力関係論にたって、「校則等の制定によって、他の具体的行為を待たずに」、つまり、具体的に命令・強制されることがあるか否かによらず、「生徒に直接具体的法的効果を生じさせるものでない」というのであるから、原判決は、違憲理論である公法上の特別権力関係論をよりどころにして法的影響を度外視して否定していることが認められるのである。よって、原判決が、校則の法的影響の判断を違憲の法理論によって判断していることになるから違法である。
五、教育を権力的にとらえる違憲性
つぎに、原判決が、校則(生徒心得)を公の施設の利用関係を規律するための行政立法である管理規則(営造物管理規則)ととらえ、学校と生徒との関係を特別権力関係ととらえて、権力的に規則を守らせても違法性がないとする旧態依然とした判断をしているのは、憲法・教育基本法に反する。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」(憲法二六条一項)「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」(同条二項)として、教育は国民の義務と規定しているのであって、権力的に教育する権限は否定されているのである。教育基本法においても同様に、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(教育基本法一条)として、国民の責務を説き、教育する権限を肯定する法令はなく、権力によって教育にあたることは違憲であり、違法である。
したがって、原判決が、教育的に生活指導するために定められた校則を、法によらず権力的に守るよう教育しても違法ではないとするのは、違憲であり、違法である。原判決は、権力的教育を正当化せしめ、教育を歪め、生徒の人権を侵害するに至る危険性を有しており、非人間性と人格否定の教育となる危険を生むので容認できない。
六、行政事件訴訟法三条二項の「処分」の解釈の違法
行政事件訴訟法(以下、「本法」という。)に「公権力の行使」の定義がないから、なにが公権力の行使であり、「処分」であるかを判断する基準が求められるが、それを言い換えることはいいとしても、公権力の行使は字義のとおりの意義があるのであり、その意義を勝手に解釈して狭めて言い換えることは許されない。その解釈を誤り違法に限定した場合は、抗告訴訟の対象領域を違法に制約して、国民の裁判を受ける権利を奪うことになり、憲法に違反することとなるから、本法の趣旨・目的及び憲法上保障された国民の権利を尊重して解釈しなければならない。
そこで、行政事件訴訟法上の「処分」とは、「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為(次項に規定する採決、決定その他の行為を除く)」(本法三条二項)をいうのであるから、本法における「行政庁の処分」と右「処分」とは同義でないことは明白である。
すなわち、前者の「行政庁の処分」は、行政事件訴訟特例法一条にいう行政庁の処分と同義であり、無効確認訴訟が取消訴訟と同列に取り扱われていない旧法の前掲判例(最判昭和三九・一〇・一九、最判昭和三〇・二・二四)によって説明されている意義と同義である。一方、後者の本法三条二項の「処分」とは、前者の「行政庁の処分」につけ加えて、「その他公権力の行使に当たる行為」(以下、「公権力的事実行為」という。)をも含んだ意義をもっているのである。そして、この公権力的事実行為は行政不服審査法二条一項の「公権力の行使に当たる事実上の行為で、人の収容、物の留置その他その内容が継続的性質を有するもの」と同義であると解すべきである。よって、本法上、「行政庁の処分」は「処分」より狭義であって、公権力的事実行為を含んでいないので、決して同一に取り扱ってはならない。つまり、「処分」は、行政庁の処分及び公権力的事実行為を意味するということに十分留意すべきである。
そこで、一審判決を引用する原判決が、「無効確認の訴え及び取消しの訴えの対象となる行政庁の処分とは、公権力の行使としての行為であって、その行為によって、直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいうと解すべきである。」として、「行政庁の処分」とは、公権力の行使であり、その行為が行政事件訴訟特例法一条にいう「行政庁の処分」であることを求めているのは、混乱しており、正しい「処分」の解釈に則って判断していない。本法三条二項の「処分」は「行政庁の処分」及び「公権力的事実行為」をいうのであるから、原判決は訴訟対象の判断につき当を得ず、本法の「処分」を不当に解釈している。公権力的事実行為であるか否かについてなにも判断していないのであり、違法である。
また、原判決が付加している判断は、「行政庁の処分その他の公権力の行使(注釈、すなわち本法三条二項の『処分』)は、特定の人に対して権利義務その他具体的な法律効果を生ずるものであることを要する」としているから、本法三条二項の「処分」が行政事件訴訟特例法一条の「行政庁の処分」であることを要するとしていることになり、やはり、「処分」の正しい解釈に立てていないのであり、結局、公権力的事実行為であるか否かを判断していない。
つまり、本件の頭髪・私服の規制校則が、公権力的事実行為であるか否か、すなわち、事実上強制されており、反復継続的に、行政庁の一方的意思決定に基づき、特定の行政目的のために国民の身体、財産等(権利利益)に実力を加えて行政上必要な状態を実現させようとする権力的行為であるか否かの判断をなにもしていないのである。しかし、校則の「処分性」判断にあたっては、行政庁の処分であるか否かの検討とともに、それが公権力的事実行為であるか否か、という視点は欠かすことができないのである。
したがって、原判決は上述のとおり「処分」と「行政庁の処分」の解釈を正しく認識していないの一語に尽き、法律・判例を正しく解釈して判断していない違法があるといわざるをえない。
七、校則の「処分性」
そこで、処分であるか否かの判断に法令解釈の違法があるので、ここに本法三条二項の処分性について再び検討する。
1、校則の行政処分性に関しては、昭和五九年の裁判官会同で議論された(最高裁判所事務総局・公物・造営物関係行政事件執務資料[法曹界、一九八七年]二〇二頁)。これによれば、次のとおりである。
①、校則を定めた時点で、その対象が特定しているので、一般的処分ではなく、行政処分である。
②、男子生徒の長髪禁止は生徒の人格的自由に係わるものであるから、単に学校内部の問題にとどまらず、行政処分である。
③、通常は校則における髪型の規制は単なる訓示規定にすぎず、男子生徒に法的義務を課したとは言えない場合が多いであろうが、違反に対する制裁措置をおいている場合などのように、校則の規定の仕方次第では、男子生徒が法的義務を課されていると解しうる場合がある。しかし、この後者の場合でも、校則は当該学校に入学してくる不特定多数の男子生徒に対して一般的、抽象的な法規範を定立することをその内容とするにすぎないから、いずれにしても、校則の制定は行政処分には当たらない。校則があることによって丸刈りにしない生徒が嫌がらせを受けるなどして、精神的苦痛を味わっているというのであれば、校則の制定を不法行為ととらえ、町に対する損害賠償請求訴訟の中でその違法性を争うことができる。
この検討は、主として行政事件訴訟特例法一条の「行政庁の処分」に該当するかどうかの論議であるといえる。
原判決判旨は、校則は営造物管理規則であり、行政立法の一種であるから、一般抽象的な性格を有するとしている。校則の制定によって、他の具体的な行為を待たずに生徒に直接具体的な法的効果を生じさせるものではないというのである。③説の後者のほうを採用したものである。そうした理屈付けは先例たる熊本の丸刈り訴訟判決(熊本地判昭和六〇・一一・一三判時一一七四号四八頁)判時匿名コメントにも示されていた。
2、たしかに、一般には規則は一般抽象的なもので、それが具体化されてはじめて個人の権利義務を確定する処分となる。しかし、校則はあとで具体的に権利義務の範囲を確定する行為を予定する一般的抽象的な法規範ではなく、相手は多数であるが、特定の人の権利義務をすでにそれ自体で具体的に確定する命令である。道路通行禁止・駐車禁止とかスピード制限の標識は法規ではなく一般処分とされているが、それと同じである。これをもう少し説明すると、先生(教諭)が長髪の生徒に対して丸刈りにして来いと命令すれば、(これに違反した場合の強制丸刈りを待たず)すでに個人の市民的な(学校外に及ぶ)人格的自由を侵害するから、処分である(①②説はこの趣旨であろう)。そして、丸刈り校則は、学校側が中学校入学予定者説明会や朝礼などで、校則に従いなさいということからもわかるように、そうした命令を学校としてまとめたにすぎないから、長髪の生徒が丸刈りにしなければならない義務は校則に続く処分を待たずにすでに校則の存在により確定している。したがって、校則は処分として、抗告訴訟の対象になると解するのが合理的である。
校外でも制服を着用せよという校則も、私服を着て、先生(教諭)に見とがめられて、制服をなぜ着用しないのか、着用しなさいと言われて初めて具体的な命令だという考えもあろうが、校外でも制服を着用しなさいという先生(教諭)の言葉を命令と考えれば、それを書面化した校則は具体的な命令といえる。
3、仮に、校則は一般抽象的な規範にすぎないとすれば、原則としてはその具体的な執行の段階まで待たなければ救済をえられないことになる。たとえば、いわゆる長野勤評事件において、最高裁(昭和四七・一一・三〇民集二六巻九号一七四六頁)は、事前の義務不存在確認訴訟は、「事前の救済を認めないことを著しく不相当とする特段の事情がある場合」にのみ許容されるとした。
また、校則は、守らなければならない規範ではなく、単なる指導の基準にすぎないと解されるかもしれない。たとえば、標準服着用義務不存在確認訴訟に関しては、京都市立中学校では標準服を着用しないと、指導をするだけで、それを理由として懲戒処分をしたり進級拒否をした例はないというのであるから、標準服を着用しないことによる不利益処分の確実性は極めて低いと認定して、訴えを不適法とした例(京都地判昭和六一・七・一〇判例自治三一号五〇頁)がある。これは前記会同③説に近い。生徒心得に定める制服着用義務は指導にとどまっているかぎり違法ではないとする判例(東京高判平成元・七・一九判時一一三一号六一頁)がある。
しかし、中学校の校則違反に対しては、退学処分がなされるわけではなく、また、懲戒、進級拒否のような具体的な行政処分がなされなくとも、学校という総合的な接触を伴う社会では、日常、指導と称する事実上の強制、嫌がらせ(朝礼の場で、立派な頭だなどと撫でて、皆の前で恥をかかせるなどの例あり)、仲間のいじめ、村八分、先生(教諭)の冷遇(学級委員などに任命しないとかの例)、内申書の不利益(従順でないなど)記載などの、陰湿な制裁の可能性が高いのである(坂本秀夫・校則裁判[三一書房、一九九三年]七四頁以下参照。最近でも、丸刈り拒否をした中学生が一人隔離授業を受けさせられた例がある(朝日新聞一九九四年六月一八日夕刊)。あるいは、生徒はその制裁をおそれて(制裁に屈服し)、意に反して校則に従わざるをえない(萎縮効果)。
熊本丸刈り訴訟判決は、丸刈りは強制されていない、学級委員への任命留保、クラブ活動への参加制限、内申書への記載などは行われていないという事実を認定して、丸刈り校則が著しく不合理であるとは断定できないとしたが、それはPTA、地域社会から大変な差別を受けたという事情(坂本・前掲書三三頁以下)を無視している。そして、こうした(多くは事実上の)制裁のそれぞれについて争う方法はないから、その根本にある校則を除去するしかない。そうすると、これは、校則に従わなくともたいした不利益がないと予想されるような場合(前記京都地判昭和六一年はその例であろうか)を除いて、処分性を有すると認め、その校則を訴訟対象として認めるべきである。
4、本件校則の制定が、公権力の行使に該当するかどうか、すなわち公権力的事実行為であるかどうかを検討すると、教育が権力的になされるべきでないことは先に述べたとおりであるが、現実には特別権力関係と見る旧態依然たる風潮があることも残念ながら否めない。教師が生徒に命令・強制していることは散見されることであり、また、指導に従うべき地位にある生徒にとっては、校則は準強制力があるとみるべきであり、反復継続的に指導されるのであるから、公権力の行使性を否定できない。だからこそ、全員が守っているのである。
また、事実上の強制力が、教師によってではなく、規則があるゆえに、上級生や同級生、生徒会役員から執拗に規則を守るよう迫られるのが実態であり、もし守らなければ、教師は指導するだけとしても、他の生徒からの要求、非難、いやがらせは想像を絶するものがある。画一的な身なりを指導することは、生徒に異端児に対する執拗な攻撃という形になって表れ、それは教師の指導をはるかに越えた強制力を発揮し、やがて、それに屈して守らざるをえなくなるのである。
よって、学校で制定される校則は、行政庁の一方的意思表示に基づいて、特定の行政目的たる教育の目的を達成するために、生徒の頭髪や服装に関する生徒の権利に実力を加えて、行政上必要な状態を実現しようとする権力的な行為規範であり、現実に小野中学校では事実上強制されている。校則は、その法的影響性を全く認めないことは相当でないと同時に、公権力の行使性(公権力的事実行為としての性質)を全く認めないことは相当でない。
すくなくとも、生徒は、髪形を規制し私生活の服装を規制する校則によって、人権に影響を受けているばかりか、事実上守っており、違反ができないように圧力がかかっているという事実は否定しようもない。
5、校則の存在により被り得る種々の不利益を避けるために、丸刈り・校外制服着用の義務のないことの事前確認を求める訴え(法定外抗告訴訟)が許容されるべきである。もし、校則が処分でなくとも(一般抽象的な法規範か、単なる指導であれば)、同様であろう。問題は成熟性の立証であるが、本件の学校でそうした陰湿な制裁が予想されるかどうかはいずれの立場でも立証は困難であり、一般的な、定性的な立証で十分というべきである。
八、本件校則の「処分性」の相対性と裁判規範原則に違反する違法性、及び「処分性」を完全否定して裁判を受ける権利を奪う違憲性
ところで、「公権力の行使」の判断においては、憲法上国民に保障された権利を尊重し、訴訟法の目的に照らして、総合的、合憲的に判断しなければならないが、本件校則の処分性の有無は少なくとも疑義的、相対的なのであるから、その場合の裁判規範はいかにあるべきかを検討して本件を判断すべきである。もともと、行政行為の法的影響性や公権力の行使性の判断基準は、絶対的でなく、事案によっては相対的、疑義的な限界事例もあるのである。
思うに、事相・事象をつねに二元的、対立的に把握することは誤りである。有無の中間領域も存し、あると言えばあり、ないと言えばない、いわば空もある。黒白は極端事例であって、通常の事物の存在状態は、中間であり、濃淡の世界が現実である。ある事物が灰色である場合は、これを黒と言うも、白というも誤りである。事物・事象をすべて二元的に二者択一的に判断するのは、誤判の危険性をそれ自体に含んでいる。万物はオールオアナッシングないしはイエスオアノーの対立的、二元的判断が誤りであるという認識が不可欠である。たとえば、色彩の判断に二者択一的把握はそぐわず、不可能である。白と黒は両極端であるが、天気も快晴と雨しかないというのではない。大小は相対・比較の観念であり、特殊と一般も相対である。強制と強い指導、直接と間接、具体と抽象もまた、相対的であって、絶対的でない。絶対的認識ができる場合は別として、普通、相対的であるゆえ、事物事象の認識において、相対的、計量的判断手法の導入を法律的判断においても求められている。特定の事象が相対的であるのに相対的、計量的手法を全然使わず、二者択一の二元判断をすると極端な正反対の結論に至ってしまうのである。逆転判決になる場合には、二者択一によって判決するからであるが、控訴審、上告審の判断がまるで逆であることは珍しくないのである。
そこで、二者択一的に判断せねばならぬ裁判の宿命からは、中間的領域にある事象をいかに判断すべきかという問題を解決しなければならない。事象は必ずしも二者択一の判断にそぐわないものもあるとの相対主義からすれば、黒とは言えず、白と断定もできぬ場合は、その中間的認識をそのまま表明し、若しくは計量的に表明するのが正当な判断である。灰色を白だ、黒だというから誤るのであって、灰色は灰色であるというのが正しい判断である。濃淡を計量的に表現することは、事象の把握に欠かせない手法である。法律の世界は灰色を白だ、黒だと対立的になりがちであるが、刑事犯罪の量刑判断や損害賠償判断は実際計量的になされているのであるから、もっと相対的手法を用いるべきである。そして、法律事象の判断基準が絶対的でなく、相対的であって、二者択一的判断が困難であるときは、法令の趣旨・目的に合致し、合憲的となる方を選択すべきである(以下、「相対的事象の裁判規範原則」という。)。反対に逆の判断をして、法目的に反し、違憲となる結果を招来する場合は、その判断は違法であるというべきである。
そして、本件のごとき行政事件訴訟は、もともと国民の権利利益の保護と適正な行政運営がなされることをもって公共の福祉に寄与することが大事なのであり、そこに主眼・目的があるのであるから、疑わしきは国民の利益になるよう判断しなければならない制約があるというべきなのである。すなわち、国民は主権者であり、国民が信託した行政府の違法を、司法府たる裁判所が判断するにあたっては、第一に国民の福利を最優先しなければならないのであり、憲法の権利を尊重しなければならないから、本法三条二項の「処分」は違法にならない限り、広義に解釈して裁判を許容して本案の審理をしなければならない。疑わしきは国民の利益にとの原則を守るべきである。そうしてこそ、国民の裁判を受ける権利は実質的、実効的に保障され、国民の権利を保障することができる。そうでなく社会通念をはるかにこえて過度に不必要なまでに処分性を判断するのは、国民の裁判を受ける権利を奪って違憲であるというべきである。
また、行政庁の処分及び公権力的事実行為の有無について検討すると、物理と同様に力が働けば、作用と反作用の原理から、これを受ける者に影響を与えると考えるのは筋違いではない。そして、作用があったか否かは、比較的容易に判断できるが、作用が及んだか否かは判断しにくいのであるが、反作用があるか否かについて過度に厳密に判断しようとすると、かえって法の目的を忘却してしまう。特定の国民に対する作用があれば処分・公権力の行使であると判断し、本案の審理をすべきである。反作用の認定は、これを広くとらえるべきであり、特に予防訴訟は、処分に続く不利益があると疑われる場合は、その処分は反作用であるとみなすべきである。もともと国民は、民衆訴訟を除いて、自己の権利侵害・不利益があることを理由に提訴しているのであって、ここが痛いという患者に、本案審理の治療をせず、痛いか痛くないかの判定に厳密にこだわり、痛みを訴える患者に、痛みが認められないとして治療(本案審理)しないのは、使命・責務に反する違法がある。
もともと、本法三条二項の「処分」は、「公共機関の行為により一定の国民が法的影響を受ける行為をいい、またはその権力的行為及び事実行為をいう」、と解釈して、字句の語義以上に制限して解釈してはならず、国民の権利侵害の救済と保護、権利侵害を予防する観点から、違法にならない限りひろく解釈すべきが合憲的なのである。いたずらに処分性にこだわり、国民の裁判を受ける権利を奪うのは本末転倒であり、違法である。
よって、原判決は、本件の処分性につき厳しく解釈しすぎ、相対的認識に欠け、裁判規範原則に反する違法性があり、上告人らの裁判を受ける権利を奪う違憲性があるというべきである。
第二ないし第七<省略>